2024-04-30 08:34:00

" 自ら制限を設けてどうするんだよ "

今朝も目覚めることが出来た。

ありがとう。

 

 

『みずからせいげんをもうけてどうするんだよ』

 

 

「もういっぱいいっぱいです」

「これ以上やれません」

 

自分は精一杯やっていると主張する。

 

でもどうだろう。

 

その人の顔から

達成感の欠片も

感じ取れないではないか。

 

 

本当に持てる力を

100%発揮したときには

「やりきった」という、

とても清々しい

達成感でいっぱいになる。

 

その表情からは

笑顔と

大きくて非常に強い

プラスの氣が

身体中から出るものなのだ。

 

 

私自身も過去に経験がある。

 

その一つは

合氣道三段の昇段審査であった。

 

審査基準技である

約八十の組技と

剣技十二の型を二種、

杖技二十二の型を二種

さらに六人掛けの乱取りを

何百回も稽古を繰り返した。

 

もちろん初段までの

基本技を数年間学び、

 

さらに初段から

何年にも渡る

日々の積み重ねが

あるからこそ出来るものだ。

 

 

いよいよ

やってきた三段審査。

 

やるべき技を

連続していく中で、

とても「落ち着いている」

 

という感覚を

自分自身で

はっきりと認識出来た。

 

 

それまでの

私の人生において、

 

こんなにも

「落ち着いている」という

実感というか感覚を

その時初めて味わった。

 

周りがよく見えて、

まるで

スローモーションかのような

自分の動きだった。

 

もちろん実際には

とても速い動きの連続なのだが。

 

 

場の空氣や音、

道場の全てが今、

自分が主体で

流れているような感覚だった。

 

自分で言うのも

痴がましく僭越ではあるが、

 

自分の発する強い氣が

道場全体を包みこんでいた。

 

「やるだけやった」

あとは結果を待つだけだ。

 

むしろ結果など

どうでもよかった。

 

結果より

「やるだけやった」

達成感でいっぱいだ。

 

審査結果も

師匠から三段の

お許しをいただくことができ、

とても氣持ち良い

三段審査であった。

 

 

「もういっぱいいっぱいです」

その言葉を発するなら、

君はそれくらい

出来たのでしょうか。

 

同じ

「いっぱいいっぱい」でも

私の場合は

やりきったという

達成感と自信に

満ち溢れた氣で

「いっぱいいっぱい」だ。

 

 

何が君を

いっぱいいっぱいに

しているのか?

考えたことがあるか?

 

私からみればそんなもの、

その程度で

「まだ始まってない」に等しい。

 

それにもう一つ

付け加えておく。

 

頑張るから

いっぱいいっぱいに

なるのです。

 

心身の力みが、

それ以上、

心と身体を

動けなくしているのです。

 

早くそれに氣付かねばいけない。

 

 

ストレッチや柔軟体操を

するときは力を抜くから

可動域が広がるでしょ。

 

同じように

頑張ること、力むことを

全て完全に放棄すれば、

 

その域に

達することが出来るのだ。

 

 

要は

正しいリラックスを学び、

実践することです。

 

 

「まだまだ」

「まだいける」

 

君の力はその程度ではない。

 

 

最後までお読みいただき

ありがとうございました。

 

 

道場長 拝

2024-04-26 07:45:00

" 人はあっという間に死ぬ。ではどうする "

今朝も目覚めることが出来た。

 

ありがとう。

 

 

 

 

 

『ひとはあっというまにしぬ。ではどうする』

 

 

 

 

 

永い宇宙の歴史の中で

 

私達が生きる時間は、

 

ほんの一瞬です。

 

 

 

天地大自然の営みの中では

 

私達人間など

 

朝に生まれて

 

夕に死んでいくようなもの。

 

 

 

 

 

人として

 

生まれたからには

 

必ず死ぬものです。

 

 

 

 

 

これが真実であります。

 

 

 

 

 

それならば

 

 

 

一日生きれば

 

一日の儲けであり、

 

一年生きれば

 

一年の利益です。

 

 

 

 

 

従って、

 

私達が生きている

 

時間も場所も

 

わずかの間の

 

仮の世であり、

 

わが身も仮の身。

 

 

 

 

 

死後の世界がどうとか、

 

輪廻転生とか、

 

死にもしないで

 

何とも言えない。

 

 

 

あるのかも知れないが、

 

それは自分が死んでから

 

明らかになるものである。

 

 

 

そう私は考えます。

 

 

 

 

 

この世は仮の世であり、

 

この身は仮の身。

 

 

 

もとのあるじは

 

天地大自然です。

 

 

 

 

 

この身に付けた

 

全てのものも、

 

いつか天地大自然に

 

お返ししなければいけない。

 

 

 

 

 

もう充分すぎるほど

 

与えられている。

 

何も不自由なく足りている。

 

 

 

 

 

そう思うと

 

生きることが楽になる。

 

 

 

 

 

永遠に自分のものに

 

なるものなど

 

何一つ無いのなら、

 

 

 

やるべきことは

 

自然と分かってくる。

 

 

 

 

 

この身を

 

天地大自然に

 

お返しするまでの、

 

 

 

ほんの僅かな間を

 

一生懸命に

 

世のため人のため、

 

 

 

仮の世である日本と

 

もとのあるじである

 

天地大自然のために

 

益になることだけに勤める。

 

 

 

 

 

自分の得意分野で

 

心身の病んでいる人を

 

一人でも元氣になれるよう

 

導けたら、

 

 

 

 

 

びくびくしている臆病者を

 

一人でも活き活きとした

 

日常を送れるように

 

導けたら、

 

 

 

 

 

たとえ微力であっても

 

それだけを

 

日々の勤めとして

 

願い怠らない。

 

 

 

 

 

これが私流の

 

一番楽な生き方で

 

天地の大道でありまする。

 

 

 

 

 

 

 

最後までお読みいただき

 

ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

道場長 拝

2024-04-25 08:18:00

" 尊ぶ先に平和がある "

今朝も目覚めることが出来た。

 

ありがとう。

 

 

 

 

 

『たっとぶさきにへいわがある』

 

 

 

 

 

平和とは、

 

世界の国々がお互いに

 

相手の国を大切にすることだ。

 

 

 

 

 

自国の歴史と

 

文化風習に誇りを持つ。

 

 

 

それを愛国心というのだ。

 

 

 

 

 

自国に誇りを持てば

 

他国も同じだ。

 

 

 

他国の歴史、

 

文化風習も尊重する。

 

 

 

 

 

自国のことは何も知らない。

 

 

 

外国人に

 

「日本とはどんな国ですか」と

 

質問されて

 

何も答えることが出来ない。

 

 

 

日本人が

 

即答出来なくてどうする。

 

 

 

 

 

「日本は神話から地続きで実に2000年以上の悠久の歴史がある国です」

 

 

 

紀元前660年に

 

初代神武天皇が

 

即位された年から

 

日本という国が始まった。

 

 

 

西暦2024年、現時点で

 

2684年の歴史がある。

 

 

 

これが「皇紀」という

 

日本のオリジナルカレンダーです。

 

 

 

 

 

それに加えて

 

 

 

「初代神武天皇から父系一系で今上陛下まで126代続いている皇位継承。これが世界に誇れる日本という国です」

 

 

 

私ならそう即答する。

 

 

 

 

 

自国のことも誇れず、

 

どうして他国を

 

尊重出来ようか。

 

 

 

 

 

もっと分かりやすく例えると、

 

 

 

自分のことは、

 

大切にしないで、

 

相手だけを大切にする。

 

 

 

そんなこと

 

出来るのでしょうか。

 

 

 

それは身のまわりの

 

生活を考えれば分かる。

 

 

 

 

 

友達と悲しくつまらない

 

喧嘩をしないためには、

 

 

 

相手に何でも合わせたり、

 

相手の言いなりに

 

なったりするのではなくて、

 

 

 

むしろ自分というものを

 

しっかり持って

 

氣を出して

 

人と接していたら、

 

 

 

周りも

 

あなたを認めて、

 

おかしな喧嘩は起きない。

 

 

 

これを抑止力というのです。

 

 

 

 

 

個人間でも

 

国家間でも

 

同じことではないでしょうか。

 

 

 

 

 

最後までお読みいただき

 

ありがとうございました。

 

 

 

 

 

道場長 拝

2024-04-24 08:42:00

" 次につながる使い方 "

今朝も目覚めることが出来た。

 

ありがとう。

 

 

 

 

 

『つぎにつながるつかいかた』

 

 

 

 

 

「高級食材を食べる」のと

 

「美味しくいただく」ことは

 

全く違うことです。

 

 

 

 

 

いくら高級焼肉店で

 

極上のお肉を食べたとしても、

 

 

 

何か心配事で

 

頭がいっぱいだったり、

 

 

 

家族や友人と

 

楽しい食事の場であるはずが、

 

 

 

何やら氣まずい

 

雰囲氣のなかで食べたり、

 

 

 

口喧嘩しながら食べたら、

 

美味しいはずはない。

 

 

 

 

 

何を食べるかではなく、

 

どう食べるのか…。

 

それが重要です

 

 

 

 

 

食べものは、食べたら

 

消えてなくなるのではなく、

 

 

 

私達の身体の血となり、

 

肉となってくれるのです。

 

 

 

 

 

私達人間は

 

地球上の動植物の命を

 

いただかなければ

 

生きていけません。

 

 

 

 

 

「私の身体の一部になってください。決して損はさせません。」

 

 

 

「あなたの命のお陰でこの身を世のため、人のために使うことができます」

 

 

 

 

 

その命に感謝して

 

その命をいただくからこそ、

 

 

 

血となり肉となって

 

応援してくれるのです。

 

 

 

 

 

私達が生きていく上で

 

必要不可欠である、

 

他の命に対して

 

 

 

「金を払ってるのだから食べるのが当たり前だ」と

 

言わんばかりに食べて、

 

栄養になるわけがないのです。

 

 

 

定食屋でスマホ見ながら

 

トンカツ食べるような

 

恥ずかしい真似はやめましょう。

 

 

 

 

 

私達人間は

 

他の尊い命の犠牲の上に、

 

生かされていることを

 

決して忘れてはいけない。

 

 

 

 

 

食べものも、

 

お金も、

 

時間も、

 

体力も、

 

心身の使い方も、

 

氣も…。

 

 

 

 

 

「消えてなくなるのも」には

 

決してしない使い方を

 

日々実践していきたいものですね。

 

 

 

 

 

最後までお読みいただき

 

ありがとうございました。

 

 

 

 

 

道場長 拝

2024-04-23 07:57:00

" 教えるは学ぶの半ばなり "

今朝も目覚めることが出来た。

 

ありがとう。

 

 

 

 

 

『おしえるはまなぶのなかばなり』

 

 

 

 

 

教えることの半分は

 

自分が学ぶということである。

 

 

 

教えるとは

 

学ぶということであります。

 

 

 

 

 

 

 

合氣道の師範をしていると、

 

本当にそうだと実感する。

 

 

 

 

 

同じ稽古をしていても、 

 

 

 

 

 

お弟子さんを持っているか、

 

持っていないか、

 

 

 

人前に立つ人と

 

立たない人では

 

全く違うのである。

 

 

 

 

 

お弟子さんを

 

投げることができなかったら、

 

師範とは言えない。

 

 

 

姿勢が乱れていては

 

師範とは言えない。

 

 

 

おどおどしているようでは

 

師範とは言えない。

 

 

 

お弟子さんを

 

上達させなければ

 

師範とは言えない。

 

 

 

 

 

 

 

だから、

 

本氣でなければ

 

師範にはなれない。

 

 

 

 

 

 

 

人を教えようと思えば、

 

自分で得心がいくまで

 

学ばなくてはいけない。

 

 

 

 

 

 

 

従って、

 

人を指導する立場の人は

 

著しく進歩するのだ。

 

 

 

 

 

 

 

その意味で

 

人に教えることは

 

とても良いことである。

 

 

 

 

 

 

 

しかし、

 

 

 

この理を

 

分からない者も大勢いる。

 

 

 

 

 

 

 

誰でも

 

一年習えば一年分の、

 

五年習えば五年分の

 

先生でもある。

 

 

 

 

 

 

 

「私はまだまだ未熟者です」

 

 

 

「人前になど立てません」

 

 

 

「教室を持つ時間などありません」

 

 

 

 

 

このような言葉を聴いたり、

 

 

 

そうは言わなくても

 

心ではそう思っている

 

人も大勢いる。

 

 

 

 

 

そういう人は

 

いつまでも

 

 

 

小人の域から

 

抜け出すことは

 

出来ないだろう。

 

 

 

 

 

 

 

謙虚と言えば

 

謙虚ではあるが、

 

 

 

 

 

 

 

「本当の謙虚」とは

 

 

 

 

 

師範にそのように

 

言われた時は、

 

 

 

 

 

「はい。分かりました」

 

「やってみます」と

 

 

 

 

 

返事することを

 

謙虚というのだ。

 

 

 

 

 

 

 

自分さえ学ぶことが

 

出来たら良い。

 

 

 

 

 

自分より先輩がしていないのに、

 

自分などおこがましい。

 

 

 

 

 

こういうのを

 

慢心と言い、

 

傲慢という。

 

 

 

 

 

自分の成長と上達を

 

自ら止めている

 

ことにすら氣付いていない。

 

 

 

 

 

大変愚かなことでありまする。

 

 

 

 

 

最後までお読みいただき

 

ありがとうございました。

 

 

 

道場長 拝