2024-05-13 07:47:00

" 衣服で身体は変わる "

今朝も目覚めることが出来た。

 

ありがとう。

 

 

 

 

 

『いふくでからだはかわる』

 

 

 

 

 

日本在来の衣服。

 

着物のことを和服といいます。

 

履物も含めた和装。

 

 

 

夏祭りの時期になると

 

浴衣姿の人を

 

よく見かけます。

 

 

 

 

 

和服は腰腹に帯を結びます。

 

これにより

 

腰腹が決まる

 

最適な衣服です。

 

 

 

帯と紐を締めることのみで

 

形を調えます。

 

 

 

従って洋服に比べて

 

動きにくく、

 

多くの動作に

 

不自由さがあります。

 

 

 

 

 

しかし、

 

古来より日本人は、

 

その制約のある

 

動作の中で養われた

 

 

 

日常においての

 

一挙手一投足、

 

歩き方であるとか、

 

座り方や立ち姿などの

 

美しい

 

立ち居振る舞いを

 

 

 

日本固有の

 

習慣、文化として

 

大切に培われてきました。

 

 

 

 

 

その美しさは

 

下腹を充実させた

 

動きや姿勢にあります。

 

 

 

 

 

合氣道では

 

流派により異なりますが、

 

 

 

合氣道寺崎道場では

 

男性は有段者から

 

女性は五級から

 

袴の着用を許されます。

 

 

 

 

 

腰に袴の腰板を

 

当てることにより

 

腰を支えます。

 

 

 

前紐と後ろ紐も

 

身体に巻き付け

 

下腹

 

いわゆる

 

臍下の一点(せいかのいってん)の

 

位置で結びます。

 

 

 

 

 

これにより

 

腰が安定し、

 

仙骨が起き

 

臍下の一点を中心とする

 

姿勢が決まるのです。

 

 

 

道衣の

 

帯を締めることも同様です。

 

 

 

 

 

普段の生活では

 

姿勢が乱れている人でも

 

稽古では

 

帯を締め、

 

袴を着用することで

 

腰腹が備わってきます。

 

 

 

 

 

初段になった人が

 

上達するのも、

 

五級や四級の女性が

 

急に上達するのも

 

 

 

袴を着用しているうちに

 

様になってくるからなのです。

 

 

 

 

 

洋服のスーツは

 

首元にネクタイを締めます。

 

 

 

肩幅や肩甲骨が広く

 

どっしりとして、

 

上半身に中心を置きます。

 

 

 

 

 

文化、習慣の違いから

 

生まれた

 

衣服の違いなのでしょう。

 

 

 

 

 

日本人には

 

日本人に合ったものを

 

多く取り入れていくことが、

 

これからの時代は

 

特に大切ではないでしょうか。

 

 

 

 

 

その意味合いにおいて、

 

週に一、二度でも

 

合氣道の道場で

 

お稽古する価値が

 

あるように思えます。

 

 

 

 

 

 

 

最後までお読みいただき

 

ありがとうございました。

 

 

 

 

 

道場長 拝

2024-05-10 07:37:00

" 何のために生きるのか "

今朝も目覚めることが出来た。

 

ありがとう。 

 

 

 

 

 

『なんのためにいきるのか』

 

 

 

 

 

日々の生活の中で、

 

仕事があまりにも忙しく

 

休みも思うように

 

とれなかったりした時など、

 

 

 

つい自分を

 

見失いそうになったりします。

 

 

 

また困難に直面して

 

逃げ出したくなったりします。

 

 

 

 

 

そのような時、

 

人は楽な道を

 

選びたくなります。

 

 

 

 

 

それは、

 

快適さを求める

 

人間の本能とも

 

言えるのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

人は簡単で楽な方向に

 

流れやすいものです。

 

 

 

 

 

自分一人だけが、

 

この世界から

 

取り残されているような、

 

 

 

何のために

 

自分は生きているのか

 

分からなくなったりする。

 

 

 

 

 

そのような時は

 

自分のために

 

少し時間を作りましょう。

 

 

 

10分でも20分でも

 

黙って座りましょう。

 

 

 

そして

 

瞑想や呼吸法をして

 

心を静めます。

 

 

 

 

 

地位や名誉、

 

快楽や金に

 

溺れてしまってはいけない。

 

 

 

 

 

地位やお金も

 

生きていくための

 

活力なのかもしれません。

 

 

 

 

 

しかし、

 

そうしたものは

 

この世限りであり、

 

あの世に

 

持ち込むことはできません。

 

 

 

 

 

私達は

 

天地大自然の一員なのです。

 

 

 

従って

 

私達はいずれ死にます。

 

 

 

 

 

この世は

 

仮の世であり、

 

私達の身は

 

仮の身。

 

 

 

 

 

いつかは

 

天地大自然に

 

返さねばなりません。

 

 

 

 

 

私達が

 

この世で身に付けた

 

全てのものを

 

返さねばなりません。

 

 

 

 

 

だとしたら、

 

生きている間、

 

どう生きるのか。

 

 

 

 

 

私達は

 

右も左も分からず、

 

なぜ生まれてきたのか

 

さえも教えてもらえず、

 

裸で生まれてきた。

 

 

 

 

 

初めて

 

この世に

 

生まれてきた時よりも

 

少しでも成長し、

 

美しく、

 

崇高な魂を持って

 

死んでゆくために、

 

 

 

世のため

 

人のために

 

生ききることが出来たなら、

 

 

 

 

 

自分というものが

 

この世から

 

完全に消えて無くなっても、

 

 

 

その魂は

 

残り続けるのでは

 

ないでしょうか。

 

 

 

 

 

最後までお読みいただき

 

ありがとうございました。

 

 

 

 

 

道場長 拝

2024-05-09 08:49:00

" 習慣として「型」になるまでやってみよう "

今朝も目覚めることができた。

 

ありがとう。

 

 

 

 

 

『しゅうかんとして「かた」になるまでやってみよう』

 

 

 

 

 

静座とは

 

「心をおちつけてしずかにすわること。すわって心身をしずかにおちつけること」

 

と辞書にあります。

 

 

 

一方、「正座」とは、

 

「姿勢を正しくすわること」とされています。

 

 

 

 

 

日々の合氣道の稽古では、

 

師範とお弟子さんは

 

向かい合って座ります。

 

 

 

 

 

道場では、座る際には

 

静座か胡座(あぐら)をします。

 

 

 

私が指導者として

 

学んだことの一つに、

 

 

 

「姿勢が心を表す」

 

ということがあります。

 

 

 

 

 

大切なのは

 

仙骨を起こすことと、

 

上半身の余分な力を

 

抜くことです。

 

 

 

 

 

お弟子さんと向かい合って

 

座ることが多いため、

 

姿勢は正面からしか

 

見えませんが、

 

 

 

仙骨が曲がっているのは

 

すぐにわかります。

 

 

 

 

 

合氣道を始めて

 

一年未満の

 

子どもたちに多いのが、

 

 

 

仙骨が曲がっていることです。

 

 

 

 

 

このため、

 

道場では

 

「仙骨を起こしましょう」と

 

頻繁に指導されます。

 

 

 

 

 

日本人は子どもの頃から

 

居ずまいを正す時の

 

姿勢として

 

 

 

姿勢を正すことが

 

躾の一環として

 

昔から教えられてきましたが、

 

 

 

最近では

 

静座する習慣が

 

薄れているように感じます。

 

 

 

 

 

このような文化や習慣が

 

失われつつあるのは

 

残念ですね。

 

 

 

 

 

話を元に戻しましょう。

 

 

 

 

 

「姿勢が心を表す」

 

ことについて、

 

 

 

お弟子さんと向かい合って

 

重要な話をしている際、

 

仙骨を丸めて座っている

 

お弟子さん(子どもでも大人でも)

 

に質問してみると、

 

ほとんど答えられません。

 

 

 

話しの内容や

 

質問の意味すら

 

理解してないのです。

 

 

 

 

 

静座の姿勢は、

 

仙骨が起きやすい姿勢であり、

 

この姿勢で

 

心が集中している人は

 

無意識に仙骨が起きています。

 

 

 

 

 

私は年に数回、

 

京都の西本願寺に参拝し、

 

ご先祖様への供養をします。

 

 

 

殆どの人が

 

だら〜とした姿勢で

 

読経をしています。

 

 

 

読経といっても、

 

せいぜい

 

三十分ほどのことです。

 

 

 

 

 

それなのに

 

仙骨が起きている人は

 

ほとんどいません。

 

 

 

 

 

「姿勢が心を表します」

 

 

 

 

 

こういった姿勢で

 

ご先祖様に感謝し、

 

供養を果たすことが

 

できるのでしょうか。

 

 

 

膝や腰に問題がある場合は、

 

椅子に座ることもできるのです。

 

 

 

 

 

静座も

 

慣れれば

 

何の問題もありません。

 

 

 

 

 

私は家でも静座します。

 

 

 

食事の時も、

 

ビールを飲む時も、

 

読書の時も、

 

家で過ごす時間の

 

ほとんどを静座しています。

 

 

 

そのほうが楽だからです。

 

 

 

 

 

一度、身体に染み込むと

 

それが「自然」になるのですね。

 

 

 

 

 

一度、「型」を習得すると

 

身体は疲れにくく、

 

 

 

長時間でも苦にならず

 

一定の姿勢を

 

維持することができる。

 

 

 

また

 

高い集中力も持続できる。

 

 

 

習慣になるまで

 

日々継続して

 

行うと

 

 

 

それが

 

「型」になり「技」

 

にもなるのです。

 

 

 

日本には、

 

ある身体作法や

 

運用の仕方を身体に

 

「型」また「技」として

 

 

 

定着させる文化が

 

古くからあったのです。

 

 

 

 

 

さあ今日から

 

「型」になるまで始めてみよう。

 

 

 

 

 

最後までお読みいただき

 

ありがとうございました。

 

 

 

 

 

道場長 拝

2024-05-08 06:36:00

" 僅か一歩の差。これを軽んじてはならない "

今朝も目覚めることが出来た。

ありがとう。

 

 

『わずかいっぽのさ。これをかろんじてはならない』

 

 

一日は二十四時間と決まっている。

誰にも平等に与えられる時間だ。

 

 

仕事の合間や仕事終わり、

食事の前後、

一日の生活の中で

ほんの少しの空き時間がある。

 

 

これをどう過ごすか?

 

 

暇ができれば怠ける。

遊ぶ。

食うことを考える。

酒を飲む。

教養のない動画を見る。

ゲームやパチンコなどで時間を潰す。

 

 

時間をどう使おうが、

その人の自由だ。

好きにすれば良いのだ。

 

 

一方で

僅かな時間でも無駄に使わず、

弛まぬ努力を積み重ねる。

 

 

私はその空き時間に

その日の出来事や思ったこと、

感じたことを書きとめる。

 

その書いた内容に加筆し

推敲を重ねた文章が

ここに記す「道場長の今日の一言」

であり、

 

合氣道寺崎道場の会報誌

「ぼくらの合氣道」である。

 

 

また

偉人といわれる人の著書を読む。

また

瞑想や呼吸法をする。

 

しぃ~んと心が静まれば

新たな氣が入ってくる。

 

そればかりか脳にまで

新鮮な酸素が行き渡る。

 

心身ともに

リセット&リラックスできる。

 

 

 

一日の差は大してない。

三日の差も大した差ではない。

 

 

しかし、

日々積み重ねた差は

大差が生ずるのだ。

 

 

赤ちゃんは皆、

外見など大差はない。

 

小学校入学の頃には

差が出てくる。

 

これが中学、高校、大学

さらに社会人になれば、

大差が生じる。

 

 

500mlの水なら

簡単に持てるが、

 

それが100本になれば、

たやすく持てない。

 

 

一枚の紙なら

ハサミですぐ切れるが、

十枚や二十枚になれば

簡単には切れない。

 

 

積み重ねた尊さだ。

何事も

最初は小さな一歩から

始まるのだ。

 

その一歩を軽んじてはならない。

 

 

最後までお読みいただき

ありがとうございました。

 

 

道場長 拝

 

 

 

2024-05-07 06:46:00

" 真の勝者を目指せ "

今朝も目覚めることが出来た。

ありがとう。

 

 

『しんのしょうしゃをめざせ』

 

 

GW期間〜約二週間にわたり

春の集中稽古ではあるが、

二十四節氣では「立夏」。

初夏の集中稽古ですかね。

 

そんな中、

神奈川県在住の

お弟子さんから

とても興味深い話を聴いた。

 

「最近ね。〇〇さんが亡くなられたの。私の周りの人でね、ある条件が重なる人はみんな短命なんだ…

〇〇さんも〇〇さんも、先生とご縁があった〇〇君も最近亡くなったでしょ。

これって何かきっと理由がある氣がしてならないんだよね…」

 

 

彼女は元プロサーファーだ。

今も現役サーファーで

毎日海に入る。

 

ただし、

昔のように競技ではなくて、

好きなサーフィンも

心身統一体の

実践の場として捉え、

 

陸でも海でも

天地大自然に適う

身体の使い方と心のあり様を

極め続けるという、

 

競技者ではない

プロフェッショナルだ。

 

 

確かに言われてみれば

皆、四十代、五十代で

亡くなっている。

 

三十代で亡くなった人もいる。

 

彼女の言う

「ある条件」とは何なのか?

 

それは

「何十年も競技を続ける人」だった。

 

実際にスポンサー企業に

支援してもらい

お給料をいただく

プロ選手は

試合に勝たなくては話にならない。

 

勝ち続けなければならないという、

非常に厳しい世界だ。

 

 

サーフィンだけでなく、

野球、サッカー、相撲と

挙げればきりが無い、

 

いわゆる競技としての

スポーツも同様だ。

 

 

「ある条件」には

もう少し深い部分が含まれていて、

 

「現役は退いたが、心が未だ競技から抜け出せないでいる人」であり、

 

心のあり様が

関係しているというのだ。

 

 

「深いな~」と思った瞬間、

これと似たようなことを、

ずいぶん前に

絶版の名書で

読んだことがある氣がした。

 

 

「心が競技から抜け出せていない」

現役時代の

「相手に勝たなければならない」

 

そういう心が

日常のあらゆるところに

未だ居座っている。

 

「勝負というのは時の運。勝つこともあれば負けることもある」

 

誰でも分かってはいることであるが、

 

 

心の片隅にある

「人間関係においても相手に負けることができない」

 

このような心持ちを

積み重ねることは、

緊張の連続であり、

精神状態も内蔵にも

悪影響を及ぼし良くない。

 

 

また、派手な人付き合いや

食事も酒の飲み過ぎも

内蔵に負担をかける。

 

内蔵は全て自律神経が

働かせている。

 

自律神経が弱ったり、

過度な刺激は

内蔵を弱らせて、

やがて内蔵の病となる。

 

 

いつも相手をするのは

自分以外の他人であるから、

 

自分の思い通りにならないのが、

当たり前だ。

 

その上で

日常においても

相手に勝たなくてはならない。

 

 

いつも

ドキドキ、ハラハラ、

イライラして負けて落ち込む。

 

それを忘れようと

自我を抑えきれなく

暴飲暴食する。

 

とても

長生き出来るとは思えない。

 

人間の一生は長さではなく

「どう生きたか」

であるから

 

一概に

「短命がどうのこうの」

とは言えない。

 

 

しかし、

「そういう生活、生き方を私は望まないし、健康体とは言えない」

 

そう話す

彼女は今でも

地元の現役プロサーファーや

これからプロを目指す後輩達に

 

「天地大自然に適う心のあり方と身体の使い方」を

伝授して

後進を導くことに努めている。

 

 

それは素晴らしいことだ。

 

「我が人生の責務」として

是非続けていってもらいたい。

 

 

 

心身は鍛えれば強くなるが、

内蔵はいたわらなければ

強くはならない。

 

二十四時間休みなく、

一生自分のためだけに

働き続けてくれる内臓だ。

 

いたわり可愛がって

あげなければならない。

 

 

相手をするのは

他人ではなくて自分だ。

 

 

私利私欲、

自我を抑えることが

出来ないというのは、

自分に負けるということだ。

 

相手に勝っても

自分に負けているようでは

所詮「弱い者」だ。

 

自分に打ち克つことが

「内臓をいたわる」

ことであり、

 

「真の勝者」ではあるまいか。

 

 

最後までお読みいただき

ありがとうございました。

 

 

道場長 拝